こんにちは。
永遠のテーマに思われるお題目、幸せと比較につきまして。
人生の幸せにおいて、比較という物差しを完全に捨て去る事は可能でしょうか、すべきなのでしょうか。
そもそもどうして、人は幸せ になりたいのでしょうか。。
もっとたくさん、という時代から(先進国では全体的に。)
量から質への転換しつつある私たちの社会ですが、
より”良い”質を求める点において、現状改善型であります。
社会の根本が、富の再生産 という”もっと”に基づいているので、当然なのですが、
人間、ほどほど、いい加減 という尺度で漂っているのが幸せなんでは、という意見があります。
では、ほどほどに満たなかったら、人は不幸になるのでしょうか。
自分の幸せがわからない時は、不幸な境遇の人と比べてみたら、
恵まれている事がわかる。というのは、説得力のある現状肯定型主張ですが、
これも比較ベースですね。
次に、ただ今そこに在る事を肯定せよ、与えられた命をありがたく受け止めよう、という
宗教的な考え方があります。生きている事自体がこのうえない幸福だと。
幸せは個人の絶対的な感覚であると。
これもやっぱり有と無の間の比較から、幸せを引っ張り出してきている事になります。
そうすると、幸せという観念自体が、比較の裏返しという事なのでしょうか。
幸せになるというのは、自分の人生を肯定する というような事ですよね。
あるいは自分の周り、生きている世界についても。
肯定しないと、幸せにならないと、希望がないと。
という、こだわり、執着みたいなのは、どこから出てくるのでしょうか。。
肯定も否定もなく、有と無の境界線がない時点まで解脱するといったらば、
高校時代に習(わされ)た般若心経ではありませんか・・
(んー 本当に仏教とキリスト教って、根本的に違うなぁー)
10.14.2009
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